サンフレッチェ広島のFWパトリック(30)が4日に自身のインスタグラムを更新し、日本への帰化が叶わなかったことを明かした。
日本帰化の条件とは何か?
パトリック選手の魅力や素顔、さらに、いつから日本に帰化したいと思うようになったのかなどを調査しました。
過去のサッカー選手で帰化に成功した名選手は誰なのかを調査しました。
ポルトガル語で「僕の帰化はうまくいかなかった」と報告すると、そのあと日本語で
僕はすごく望んでたけど、残念ながら変えることははうまくいきませんでした。
日本の為にプレーできる何かチャンスはあるかなあ?I love japan🇯🇵
4日に更新された彼のインスタグラムです。
外国人が帰化を望むというのは、やはり、日本に相当の愛着が感じないとありえないですね。
パトリック選手が初めて日本に来たのは2013年川崎フロンターレの選手として。
そのときは、そんな話もなく2014年ブラジルに帰国しています。
再来日したのは2015年ガンバ大阪の選手として来てからのようです。
パトリックはG大阪所属時の2016年1月にツイッター(@patricaguiar)で
「日に日に更に日本のことが好きになります。
僕の事をオープンに受け入れてくれた国です。
私はいつの日か帰化する事が出来ればそれがおこればとても幸せに感じるだろうなあ。私の夢はそれと支持される日本の色、名誉のあるこのユニホーム」
と日本国籍取得へ意欲を示していた。
引用;ゲキサカ
2013年 ブラジルのクラブチームから川崎フロンターレへ期限付き移籍、あまり活躍することなく、同じ年にヴァンフォーレ甲府へ。
移籍後全試合に先発出場し、5得点を挙げた。
シーズン終了後、移籍期間満了により退団になり、ブラジルへ帰国。
2014年7月より、ガンバ大阪に期限付き移籍。
このガンバ大阪で大ブレイクする。
シーズン途中加入でありながら、強靭なフィジカルと裏へ抜け出すスピードを武器に2トップを組んだ宇佐美貴史とのコンビでG大阪の攻撃陣を牽引。
第26節鳥栖戦ではハットトリックを達成するなど宇佐美に次ぐ9得点を挙げ同年のJリーグベストイレブンを受賞。
引用;wikipedia.
2014年ナビスコカップ決勝では2得点をあげ、最優秀選手賞を受賞し優勝に貢献。
2014年天皇杯でも3試合に出場し、決勝戦のゴールを含む3得点を挙げ、優勝に貢献。
ガンバのリーグ優勝さらには国内三冠に貢献した。
2015年の天皇杯優勝にも貢献したが、2016年10月13日の練習中に全治8カ月の大ケガを負う。
2017年6月でガンバ大阪との契約が切れ、サンフレッチェ広島へ移籍。
J2降格のピンチにさらされていたチームをひっぱる活躍をする。
2018年リーグ戦でサンフレッチェ広島は首位(5月5日現在)独走中。
7ゴールをあげてチームをけん引している。
〇引き続き5年以上日本に住所を有すること(国籍法5条1項1号)
5年間に中断期間があるとこの条件を満たさないことになります。
〇20歳以上で本国法によって能力を有すること(国籍法5条1項2号)
〇素行が善良であること(国籍法5条1項3号)
前科・非行歴、適切な所得申告・納税義務違反など注意が必要
〇自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によって生計を営むことができること(国籍法5条1項4号)
〇国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によってその国籍を失うべきこと(国籍法5条1項5号)
〇日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと(国籍法5条1項6号)
引用;竹原広和事務所
6つの事例に例外の適用などありますが、今回割愛させてもらいます。
また、当然のこととして、日本語の読み書き・理解・会話などの能力が必要です。
追記:5月6日23:15
帰化が認められなかった理由を明らかにした。
さらに、今後も帰化を目指し、決意を表明した。
「帰化するための条件に達していなかった。(帰化するためには)5年以上、ずっといないといけないんだけど、自分は膝をケガしたときに一回、帰っていた。それが引っかかってしまった。(それでも)日の丸を背負うこと、日本代表に入ることは今でも自分の夢。もちろん、日本人選手にも優れたFWはたくさんいるけど、自分のようなフィジカル的な強さがある選手は少ない。自分のホームは日本だし、自分の地位を勝ち取ったのも日本。日本のために戦いたいというのが夢だし、将来的に叶うことがあれば」
引用;スポニチ
調べたところ、31名いるようですが、有名な方に絞ってお伝えします。
出典;wikipedia
Jリーグができる前の日本サッカーリーグ時代の1977年、20歳で来日。
その後、中心選手として日本サッカー界の発展に貢献。
ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)で、三浦知良とともに、中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続ける。
1990年から1995年まで日本代表にも選ばれる。
引退後、解説者としても活躍。
精神論を全面に出した解説で言葉が汚く、その解説に賛否両論。
〇1998 FIFAワールドカップにおいてNHKの解説を行っていた際、日本代表のふがいない戦いぶりから、試合後「何ニヤニヤしてんだよ!ワールドカップは戦争だヨ!」「こんなサッカーじゃオナニーしてんのと同じだヨ!」と
〇中田英寿のセリエAプレー解説を務めたときも「大和魂を見せろ」「あんなプレーでは相手にナメ(見下さ)られる」と
引用;wikipedia
出典;あの人は今情報局
留学生獲得に訪れていたコーチの目にとまり、1994年6月に明徳義塾高校に入学。
高校では活躍がなかったが、清水エスパルスの練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。
1997年に正式加入、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。
清水、浦和、名古屋などでプレーをする。
2001年11月に日本への帰化申請が認められると、フィリップ・トルシエによって日本代表に招集される。
2002年から2006年までサッカー日本代表に招集されて82試合出場7得点。
FIFAワールドカップに2回(2002年日韓大会、2006年ドイツ大会)出場、2004年アジアカップに優勝した。
最終的には当時歴代4位となる82まで代表キャップ数を伸ばした。
出典;wikipedia
日系ブラジル人で、父親は日系ブラジル人二世で、自身は日系三世に当たる。
1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた。
1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日。
そして、渋谷幕張高校サッカー部を初の全国大会出場へ導く。
広島、水戸、浦和、名古屋、京都でプレーし、現在も京都の現役選手。
日本に帰化した理由は
僕ができることはサッカーしかない。日本国籍を取って、日の丸を付けて、プレーをする。日本のためにサッカーをして、お世話になった人たちに恩返しをしたい。
引用;wikipedia.
2006年8月にイビチャ・オシム監督の指揮するA代表に初選出。
日本代表の中心選手として定着した。
2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し、本大会への代表にも選出された。
闘志を溢れるプレーで常に見方を鼓舞してきた選手。
日本帰化を勧めた当時のGMの今西和男は、
「闘志を持ちながらも、礼を重んじる。
このような選手が入ったら、日本代表はきっとうまくいくと思った」
という。
引用;wikipedia
最後に、今回残念ながら、日本帰化が認められなかったパトリック選手の人柄を表すSNSを紹介します。
先日、怪我をした元チームメイトのガンバ大阪東口選手に対して
人種差別を受けた2015年、自分の悲しい心情を吐露。
サッカーJ1の年間優勝を争う明治安田チャンピオンシップ準決勝が行われた28日、浦和を破ったG大阪のブラジル人FWパトリック選手(28)に対し「黒人死ねよ」との人種差別的な書き込みが短文投稿サイトの「ツイッター」上に投稿された。投稿者のプロフィルには浦和サポーターであることが明記されている。Jリーグや両クラブは対応を協議している。
パトリック選手は「残念で酷な人種差別の書き込みがあった。どんな人でも傷つく。対応をしっかりやっていただけることを期待している。こういうことは人間としてやるべきではない」などと心境を明らかにした。引用;サンスポ
この書き込みは当時、炎上しました。
そのパトリック選手をガンバサポ以外からも、一杯励ましの言葉をもらったことを感謝している様子が報道されました。
過去の帰化した名選手に変わらない日本愛をもった選手なので、残念です。
今後の活躍を期待しましょう。